松山城 

 江戸時代

74  松山城 創建時1

天守を始め、多くの建物が現存する。平山城に分類されるが、山が高く、それぞれの曲輪の独立性が強いなど、山城的な要素が多い。イラストは創建時を想定。当時は建物が白壁、天守が五層、山に木が少なかった等の伝承記録から推定した。しかし、最近の研究では異なる姿も推定される。→下の821

考証 香川元太郎 2002年 PHP研究所『名城を歩く』3

80  天守断面

80  松山城 天守断面

現存する天守は幕末に建てられたものだが、寛永期の天守をほぼ忠実に再建したと考えられる。現在は地下の入り口から1階に上がるが、この階段は見学の便利のために後付けされたもの。

考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

81  松山城 大井戸断面

二の丸で発掘された巨大な井戸。二の丸の図面にも記されており、当時は半分程度が御殿の建物に覆われていた。右には、御殿の奥に続く床下通路もある。

考証 香川元太郎 1997年 世界文化社 『日本の城』

84  松山城 本段

本壇(天守曲輪)はこれだけで小さな城と言える堅固な造り。ここに描く建物の半数は現存し、半数は木造で復元されている。現在の本段は幕末に作られたものだが、寛永期の本段をほぼそのままに再建したと推定される。

考証 香川元太郎 1994年 学研 『名城の天守総覧』

821  松山城 創建時2

1248  松山城 創建時本段1

二の丸が完成間近の蒲生期の状況を推定復元。近年、絵図の新発見や再検討、発掘調査などの研究が進み、これまでのイメージとは異なる創建時の姿が明らかとなってきた。

考証 香川元太郎 2018年 『歴史群像147 2月号』

1248  松山城 創建時本壇1

甲賀市水口図書館に保存されていた平面図と、幕府隠密による探索記録図から推定復元。5基の二重櫓が並ぶが、天守らしい建物はない。中央の池は、別の城下図にも記されており、重要だったと思われる。

考証 香川元太郎 2018年 『歴史群像147 2月号』

1249  松山城 創建時本壇2

上と同じ水口図書館の平面図を、別の見方で考証した例。創建者の加藤嘉明によって五層天守が作られ、その後それが失われて、このような簡素な本壇で間に合わせた時期があったとの説も出されている。

考証 香川元太郎 2018年 『歴史群像147 2月号』

1250  松山城 改修後の本壇

1250  松山城 寛永期本段

寛永期に松山城主となった松平定行は、加藤氏・蒲生氏が築城した城を改修し、本壇はほぼ現在と同じ姿になった。連立天守の中庭には、現在の本壇にはない池があった。

考証 香川元太郎 2018年 『歴史群像147 2月号』

甘崎城 

 安土桃山時代

  甘崎城

(愛媛県歴史文化博物館)

瀬戸内海の交通や信仰の中心だった大三島の東岸に浮かぶ小島。戦国時代には村上水軍の海賊城が築かれていたが、藤堂高虎によって改修され、今治城の支城となっていた。

考証 中井均  2010年『 歴史群像102 8月号」」

 194  甘崎城

甘崎城を海から望む。城跡には、村上水軍の海賊城を特徴付ける海岸ピットと、織豊系の石垣遺構の両方が残る。戦国城郭と織豊城郭が混在した独特の海上要塞。

考証 中井均 2010年 『歴史群像102 8月号』

村上水軍

 戦国時代

 村上水軍の海賊城マップ

(村上水軍博物館蔵)

村上水軍

 戦国時代

 村上水軍の海賊城マップ

(村上水軍博物館蔵)

現在のしまなみ海道にあたる地域。(下が愛媛県、上が広島県)全盛期の村上水軍は3家に分かれており、黄が来島村上氏、赤が能島村上氏、青が因島村上氏の城。

能島城

(村上水軍博物館蔵)

村上三島水軍の中でも筆頭と詠われた能島村上水軍の本拠だが、潮の速い海峡の小島で、現在は無人島。るs普段の館は近くの大島にあったと推定される。

 来島城

(村上水軍博物館蔵)

来島村上水軍の本拠地。能島城より大きく、水も得られるため館も設けられていたと推定される。

日本城郭史学会

(元太郎が所属する城研究会)

このサイトのすべての画像・文章の無断転載・複製・改竄を禁じます。

当サイトはリンクフリーですが相互リンクはお断りしております。

Copyright (c) Gentaro Kagawa & shiori kagawa All Righrs Reserved.

管理人 さちたろう